営業失格だった僕が、「社外のAI担当者」になるまで
ここからは、私がこの仕事をはじめるまでの経緯を書いています。サービス内容の説明ではありませんので、読み飛ばしていただいて構いません。「どんな人間に依頼することになるのか」が気になる方だけ、お読みいただければ幸いです。
ゲームクリエイターの夢と挫折
高校生の頃、僕はゲームクリエイターになりたいと思っていた。
ゲームを作るにはプログラムが書けないといけないと思っていたので、大学はとある地方の国立大学の情報系学部へ進学した。ところが肝心の数学と物理がまるで歯が立たなかった。授業は退屈で、教授の話している内容が一体何の役に立つのか、当時の僕には理解できなかった(今思えば、意味がわかっていればきっと面白かったんだろうけど)。それで教室から足が遠のいていったんだけど、代わりにのめり込むものが見つかってしまった。大学の情報処理室で友人に見せてもらった、インターネットである。文字を打つと、画面の向こうの知らない誰かから返事が返ってくる。当時はそれだけのことが衝撃で、気がつけば夜な夜なチャットでくだらない話をして、休みには東京まで出ていってオフ会で飲むようになっていた。田舎にいながら全国に仲間が増えていくのが面白くてたまらなくて、持っていたゲームソフトは全部売り払った。
頼られる楽しさ
当時は個人ホームページの全盛期で、たまり場になっていたチャットや掲示板も、誰かが自分のページに置いたものだった。それなら自分でも、というわけで、レンタルサーバーを借りて個人ホームページを立ち上げて、掲示板を置いて、パソコンを自作して、当時まだ珍しかった常時接続の回線も引いた。そうやっていじり回しているうちに、仲間内で「ホームページを作りたい」「パソコンの設定がわからない」という話が出ると、呼ばれるのは決まって僕になっていた。授業にはまるでついていけないのに、この世界でだけは頼りにされる。それが妙に嬉しかったのを覚えている。ゲームを作りたいという夢は、いつのまにか消えていた。
相談で延命した営業マン
社会人になったのは、地元のコンピュータ機器の会社だった。配属は営業。ところが、自分から売り込みに行く仕事はまるで駄目で、数年やっても成果はさっぱりだった。それでも営業を続けられたのは、相談されて解決策を示すことはなんとかできていたからだ。要望を聞いて、構成を考えて、見積もりを作って納める。この頼まれ仕事が、営業として僕を少しだけ延命させた。そのうち、ホームページが作れることからWebとマーケティングの仕事を任されるようになった。独学で本を読み漁るうちに「マーケティングとは、売り込みを不要にすることである」という一文に出会って、これは天職かもしれないと直感した。こちらから売り込みに行くのではなく、向こうから「欲しい」と来てもらうしくみを作る。営業失格の僕に、これほど合う仕事はなかった。
お客様とエンジニアのあいだ
この会社では、病院や大学向けの医療ITシステム納入も担当した。お客様は、やりたいことが次々湧いてくる人で、昨日と今日で言うことが変わる。一方のエンジニアは、仕様が固まらないうちは動きにくい。そこで僕が間に入って、要望を聞いて、実現できる構成に落としてから相談する係になった。人と話すのが得意なわけではないんだけど、どちらの言い分もわかるので、この位置は不思議と苦にならなかった。ありがたいことに、そのうちエンジニアの側も一緒に知恵を出してくれるようになって、多いときは同じ納入先に30回以上通いながら、チームで案件を進めた。
サイボウズを入れたり、CRMでコケたり
マーケティングの仕事は、そのうち会社のしくみづくりへ広がっていった。問い合わせから見積もり、受注までの流れを整理して分業の形に組み替えたり、サイボウズOfficeを社内に導入したり。顧客管理システム(CRM)にも手を出したが、こちらは会社の規模に対して大げさすぎて、運用に乗らないまま終わった。あの時は「このツールを入れればもっと高度なマーケティングができる」と信じていたが、会社の規模や現場に合わないツールを入れても逆に重荷になるだけだということを身をもって学んだ。うまくいったものも、いかなかったものもある。管理職になってからは、売上の管理や、部門をまたいだ調整もやった。今思えば、あれは今で言うDXだったのかもしれない。かれこれ15年近く前の話である。
肩書きが変わっても、来るのは「これ、どうにかならない?」
その後は独立して、中小企業のWebやマーケティングの支援、IT導入の手伝いを3年半ほどやり、それからIT企業に移ってBtoBマーケティングを5年間担当した。肩書きは何度も変わったけれど、周囲から持ち込まれるのは、いつも「これ、どうにかならない?」という相談だった。集計が面倒、レポートを作りたい、Webを改善したい、社内のツールをつなぎたい。知らないことは調べて、使えそうな道具を探して、なんとか動く形にする。振り返ればずっと同じ仕事をしていたのに、当時の僕はそれを自分の専門だとは思っていなかった。むしろ最後の数年は、自分の力をどこで使えばいいのか見失っていた。
生成AIと「先生」
生成AIそのものは、世の中で騒がれ始めた頃から面白がって触っていた。それが遊びから仕事に変わったのは、社内で「名刺管理アプリを作ってほしい」と頼まれた時だ。何をどう作るかを整理して、AIと相談しながら組み立てていくと、一人では手が出なかったものまで、驚くほどの速さで形になっていった。そうやって作り上げたアプリは、ちゃんと現場で使われるものになった。
AIがコードを書いてくれる時代でも、現場の業務に合わせることと、間違ったときにどこで止めるかを考えることは、人間の仕事として残る。そこでは、営業、マーケティング、システム納入、社内のしくみづくりと、現場を見てきた経験が思いのほかそのまま役に立った。困りごとを聞いて、ITで解決して、喜んでもらう。学生時代のあの楽しさが、二十数年ぶりに仕事のど真ん中に戻ってきた。
そこからは社内の困りごとをAIで自動化する役回りが増えて、しまいには「先生」なんて呼ばれるようになった。もちろん九割は冗談である。それでも呼ばれるたびに、まんざらでもない顔をしていたと思う。そしてこの歳になって、ようやく気づいたことがある。僕は何かの作品を作りたかったわけじゃない。ITで目の前の誰かの「できない」を解決して、喜ばれるのが好きなんだと。学生の頃は諦めるしかなかった「実装」の壁も、今はAIが取り払ってくれる。相談を聞いて、形にして、喜んでもらうところまで、一人で完結できるようになってしまったのだ。
スモラボの開業
「生成AIでオフィスの仕事を楽にする」。これを仕事の軸に決めて、2026年、スモラボを開業した。かつての僕と同じように「やりたいのにできない」と足踏みしている現場に、今日も伴走している。